羊の夜をビールで洗う

シングルファーザーなプログラマーのワンオペ育児&暮らしのブログ。

誰かと暮らすことと制御可能であるということ

家族が一人増えて、もう一人増えて、そのあと一人減って、誰かと暮らすことについて、ずっと考え続けている。

 

家族を増やしたとき、つまりは結婚と子どもを作るときの決断は、わりと何となくでそこまで深く考えてはいなかったように思う。実際、相手はそれをするにあたって不足のない人だと思ったし、どちらもある程度の期間はうまくいっていた。

 

ただちょっとしたことのすれ違いが続いて、その亀裂がだんだん大きくなってある一線を越えたときに、相手の考えていることや行動がまったく分からなくなって、制御不能になった。そうなると一緒に暮らすことが一気にしんどくなった。 

 

これまでに読んできたもので、ただの漫画なのだけど、自分の中でちょっとした呪縛になっているなぁと思うエピソードがある。「美味しんぼ」という漫画の山岡さんという登場人物のエピソードである。

 

山岡さんは、作中で栗田さんという女性と結婚するのだけど、その結婚を決断した後でその栗田さんに「自分はどんな相手でも三日一緒にいるとその人物のことを嫌いになってしまう」というようなことを明かすのだ。

 

自分は山岡さんほどではないけれど、これに近しい「人をあまり信用しない」気質があるように思う。人を信用していないがゆえに、人を理解しようとして、自分の理解の範囲にコントロールしようと、(意識しなくても)多分している。

 

そのやり方でも、仕事で誰かと一緒にいたり、何かをする分には特に問題はない。仕事は基本的に、限定された範囲で目的を同一にして行動するものだから、多少人格の相違があったり考えが理解不能なところがあっても、仕事を完遂するという点において破綻がないようにすることに集中すればいい。

 

幼い子どもと二人で暮らすことも、自分の時間をそれに使うことを割り切ってしまえば、特段苦ではなかった。というのも、幼い子どもの生活は何もかもが世話を焼くことでしか成立せず、その世話の範囲内において、自分が相手をコントロール可能だからだ。

 

けれど、子どもにだんだん自我が芽生えてくると、いつまでもそういうやり方だけではいけないし、そのやり方では遅かれ早かれ、またいずれ破綻するときが来るのではないか、という不安も感じるようになってきた。

 

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「制御する」という考え方が間違っている、ということには、もちろんうすうす気づいている。

 

実家の両親は、いっとき夫婦の危機があって、それを乗り越えて今も一緒にいるけれど、たまに実家に帰って一緒に行動するのを見ていると、お互いうまく相手の理解を「あきらめて」いることがよく分かる。それは70年という自分には想像もつかない程の長い時間を連れ添っている祖父母についても同じである。

 

また一緒にいる相手が、献身的な介護を必要とする困難な病気にかかってしまったときには、諦めだけでなくもっと確固たる覚悟が必要だろう。治療が辛くて相手の心が折れそうになっているときにも、それを受け止めるだけの大きな愛が必要となるはずだ。

 

諦めることと愛することが自分にはうまくできないのかというと、どちらもそんなことはないと思う。けれど、それができるのは少なくとも相手が自分に対して敵対していないこと、を暗に前提としていることで、やっぱり自分は相手を制御することに縛られているのではないかという気はする。

 

相手が完全に敵対していたら、そりゃ一緒にいられないでしょ、というのはある意味そうなのかもしれないけど、自分はその敵対度合いの見極めが甘いのではないかという疑念はまとわりつくし、完全に敵対しているように見えてもそれを乗り越えないといけない状況というのもやはり存在するように思うのだ(親子の場合はとくに)。

 

最近ではそんなふうに「誰かと一緒に居続けること」について、考え続けている。 

 

 

蛇足を付け加えると、「制御不能に見える人」というのは、他人であればとても魅力的に映ることも多い(現にブログ界隈でもそういう人をたまに見かける)。次に人を好きになることがあったときに、うっかり始めから制御不能な人を好きになってしまったらどうしよう、なんて余計な不安もたまに感じたりするのだけど 笑。

 

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